「歯医者さん」と聞くだけで、胸がざわつき、足がすくんでしまう…。そんな経験はございませんか?治療を受けなければならないと頭では分かっていても、どうしても一歩が踏み出せない。そのお気持ち、痛いほどよく分かります。
はじめまして。わたくし、フリーライターの三浦陽子と申します。かつては歯科医師として、多くの患者さんと向き合ってまいりました。臨床現場を離れた今、言葉の力で、歯のことで不安を抱える皆さまの心に寄り添いたいと願っております。
歯科医院が苦手な理由は、決して「気のせい」や「我慢が足りない」からではありません。実は、私たちの「五感」が深く関係しているのです。この記事では、元歯科医師としての知識と経験をもとに、音、匂い、振動といった五感の刺激がなぜ恐怖心に繋がるのかを丁寧に解き明かします。そして、ご自身でできる具体的な「安心バリア」の作り方をご紹介し、皆さまが少しでも穏やかな気持ちで歯科医院と向き合えるよう、お手伝いができれば幸いです。
なぜ私たちは歯医者さんが苦手なのでしょう?五感が記憶する「怖さ」の正体
歯科医院の扉を開けた瞬間から、私たちの五感は様々な刺激を受け取ります。それらが複雑に絡み合い、漠然とした「怖さ」や「不安」を形作っているのです。まずは、その正体を一つひとつ、丁寧に紐解いていきましょう。
「キーン」という音―記憶と結びつく聴覚の刺激
歯科医院と聞いて、多くの方が真っ先に思い浮かべるのが、あの「キーン」という独特の音ではないでしょうか。歯を削るタービンという機械が発するこの音は、特に高周波の領域にあり、私たちの脳の奥深くにある「扁桃体」という部分を直接刺激します。扁桃体は、危険を察知し、恐怖や不安といった感情を生み出す役割を担っています。つまり、あの音を聞くだけで、私たちは本能的に「危険だ」と感じてしまうのです。
さらに、もし過去の治療で痛みを感じた経験があれば、その記憶と音が強く結びついてしまいます。これを心理学では「条件反射」と呼びます。音が聞こえるたびに、過去の痛みの記憶が呼び覚まされ、「また痛い思いをするのではないか」という予期不安が増幅されてしまうのです。
独特の匂い―嗅覚が呼び覚ます過去の記憶
歯科医院には、独特の匂いが満ちています。消毒薬や、歯の根の治療に使うクローブオイル(丁子油)などがその主成分です。実は、五感の中でも嗅覚は、記憶を司る「海馬」という脳の領域と直接繋がっている、非常に原始的な感覚です。そのため、特定の匂いが、それに関連する過去の記憶や感情を鮮明に呼び覚ますことがあります。これを「プルースト効果」と呼びます。
歯科医院の匂いを嗅いだだけで、過去の不快な体験がフラッシュバックし、心拍数が上がってしまう…。それは、あなたの嗅覚が過去の記憶を忠実に再生している証拠なのです。
振動と圧迫感―触覚が感じる身体的な緊張
治療中に歯を削られる微細な振動や、口を大きく開け続けなければならないことによる顎への圧迫感も、無視できないストレス要因です。特に、普段から感覚が過敏な方にとっては、これらの刺激が強い苦痛となってしまうことがあります。自分の意志ではコントロールできない状況で、身体的な不快感が続くと、心はどんどん緊張状態に陥ってしまいます。
その他の五感への刺激
これら以外にも、私たちの五感は様々な刺激を捉えています。
- 視覚:ずらりと並んだ鋭利な治療器具が視界に入るだけで、恐怖心が煽られます。また、治療中に顔に当てられる強いライトの光も、不快に感じる方が少なくありません。
- 味覚:治療中に口の中に広がる薬剤の苦味や、金属製の器具が触れた時の独特の味も、決して心地よいものではありません。
このように、歯科医院という環境は、五感にとって非常に多くの刺激に満ちています。一つひとつの刺激は小さくても、それらが複合的に作用することで、私たちの心と体に大きな負担をかけ、強固な苦手意識を形成してしまうのです。
あなたは一人ではありません―歯科恐怖症の背景にあるもの
もしあなたが「歯医者さんが怖い」と感じていても、決してご自身を責めないでください。その感情は、決して特別なものでも、珍しいものでもないのです。実は、多くの方が同じ悩みを抱えています。
過去の体験が作る「心の壁」
歯科恐怖症の背景には、過去の体験が深く影響していることが少なくありません。ある調査によれば、歯科恐怖症を持つ方の実に85%が、子どもの頃の治療体験が原因だと報告しています。痛みを伴う治療であったり、歯科医師から心ない言葉をかけられたりした経験が、心に深い傷(トラウマ)を残し、大人になっても「歯科医院=怖い場所」という強固なイメージを形成してしまうのです。
学術的な研究においても、歯科治療に対する強い恐怖を感じる方は、決して少なくないことが示されています。例えば、2019年に発表された論文『歯科恐怖を知る―疫学と原因』によると、一般人口における重度の歯科恐怖の有病率は平均して約12%にものぼると報告されています。これは、およそ8人に1人が、日常生活に支障をきたすほどの強い恐怖を抱えながら生活していることを意味します。あなたが感じているその不安は、多くの人が共有する、ごく自然な感情なのです。
「感覚過敏」という特性
もう一つ、近年注目されているのが「感覚過敏」という特性です。特に発達障害の特性をお持ちの方の中には、特定の感覚が非常に鋭敏な方がいらっしゃいます。先ほどご説明した、音、匂い、光、振動といった歯科医院の様々な刺激を、他の方の何倍も強く感じてしまうため、治療が耐えがたい苦痛となってしまうのです。
これは、本人の「我慢」や「気合い」でどうにかなる問題ではありません。脳の特性として、刺激を強く受け取ってしまうのです。もし、ご自身やお子さまにそのような傾向があると感じたら、その特性を理解し、寄り添ってくれる歯科医院を選ぶことが非常に重要になります。
今日からできる、自分だけの「安心バリア」の作り方
歯科医院への苦手意識は、決して克服できないものではありません。大切なのは、ご自身の感覚や感情と向き合い、適切な「安心バリア」を準備することです。ここでは、今日からすぐに実践できる具体的な方法をご紹介します。
準備編:受診前に心を整えるセルフケア
治療の成功は、歯科医院の椅子に座る前から始まっています。ご自宅でできる簡単なセルフケアで、心を少しでも穏やかな状態に整えておきましょう。
| リラクゼーション法 | 具体的な方法と効果 |
|---|---|
| 呼吸法 | 不安を感じると呼吸は浅く速くなりがちです。意識的にゆっくりとした深い呼吸を繰り返すことで、心身をリラックスさせる副交感神経が優位になります。特におすすめなのが「4-7-8呼吸法」です。①鼻から4秒かけて息を吸い、②7秒間息を止め、③口から8秒かけてゆっくりと息を吐き出します。これを数回繰り返すだけで、驚くほど心が落ち着くのを感じられるはずです。 |
| マインドフルネス | 「また痛かったらどうしよう」という未来への不安から意識をそっと引き離し、「今、ここ」の感覚に集中する瞑想法です。椅子に座り、目を閉じて、ご自身の呼吸に意識を向けてみましょう。「吸って、吐いて」という体の自然なリズムを感じるだけで、不安な思考の連鎖から抜け出すことができます。 |
| イメージトレーニング | 治療が滞りなく、スムーズに終わる場面を具体的に想像してみましょう。「先生は優しかった」「痛みはほとんど感じなかった」「スッキリした口元で笑顔になっている」など、ポジティブなイメージを心に描くことで、脳は成功体験を予習し、本番での不安を和らげることができます。 |
実践編:歯科医院で試せる五感対策
少しの工夫と準備で、歯科医院での不快な刺激を大幅に和らげることができます。ご自身に合った「安心アイテム」を見つけて、お守りのように持参してみてはいかがでしょうか。
- 聴覚対策:治療音が苦手な方は、ノイズキャンセリング機能付きのイヤホンが大変有効です。好きな音楽や、心が落ち着く自然の音などを流しておけば、不快な音を遮断し、自分だけの空間を作り出すことができます。事前に許可を得ておくと、よりスムーズでしょう。
- 嗅覚対策:アロマオイルを数滴染み込ませたマスクやハンカチを持参するのもおすすめです。ラベンダーやカモミールなど、リラックス効果のあるお気に入りの香りが、薬品の匂いからあなたを守ってくれます。
- 視覚対策:治療器具が視界に入るのが怖いという方は、アイマスクや、顔の上にそっとかけてもらうためのタオルを持参すると良いでしょう。視界を遮るだけで、余計な情報が入らなくなり、心が落ち着きます。
- 触覚対策:体を優しく包み込むブランケットや、腰の後ろに当てるクッションがあるだけでも、安心感は大きく変わります。また、体を締め付けない、ゆったりとした服装で受診することも、リラックスに繋がります。
相談編:「怖い」を伝える勇気が、最高のバリアになる
何よりも効果的な「安心バリア」は、あなたの「怖い」という気持ちを、医療スタッフに正直に伝えることです。私たち医療従事者は、患者さんが不安を抱えていることを前提に、常に細心の注意を払っています。勇気を出して伝えていただくことで、より一層、あなたに合わせた配慮が可能になるのです。
【具体例:歯科医院への伝え方テンプレート】
「お世話になります。〇〇と申します。大変恐縮なのですが、以前の歯科治療で強い痛みを感じた経験があり、特に歯を削る音に対して強い恐怖心があります。治療中にもし気分が悪くなってしまったら、左手を挙げる、という形で合図をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
このように具体的に伝えていただくことで、歯科医院側も「音に配慮する」「こまめに休憩を挟む」「合図に注意を払う」といった対策を取りやすくなります。
近年では、患者さんの不安に寄り添うことを重視する歯科医院が増えています。日本歯科医師会のウェブサイトなどを参考に、カウンセリングに時間をかけてくれたり、笑気吸入鎮静法(リラックス効果のあるガスを吸入する方法)のような、痛みを和らげるための多様な選択肢を提供してくれたりする歯科医院を探すのも、有効な手段の一つです。信頼できる「かかりつけ歯科医」を見つけることが、長期的な歯の健康を守る上で、何よりも大切なことと言えるでしょう。
まとめ
歯科医院に対して私たちが抱く「苦手」という感情は、決して気の持ちようだけではなく、聴覚、嗅覚、触覚といった五感への刺激と、過去の記憶が複雑に絡み合って生まれる、ごく自然な反応です。あの独特の音や匂い、振動が、私たちの本能的な部分を刺激し、心と体を緊張させてしまうのです。
しかし、その正体を知り、一つひとつ対策を講じることで、過度な不安は和らげることができます。受診前に呼吸を整え、治療中はお気に入りの音楽や香りで自分だけの「安心バリア」を築く。そして何よりも、ご自身の不安な気持ちを勇気をもって歯科医師に伝えること。その小さな一歩が、歯科医院との関係を大きく変えるきっかけとなります。
わたくしは、歯を“心の鏡”だと考えております。歯の痛みの奥には、ご本人も気づいていない不安や悩みが隠れていることも少なくありません。この記事が、皆さまの心に寄り添い、ご自身の歯と健康に向き合うための、ささやかながらも確かな支えとなることを、心より願っております。どうぞ、ご自身のペースで、健やかな毎日への扉を開いていってください。