朝、歯を磨いていて、ふと鏡の中の自分の口元を見つめたことはありますか。整然と並んだ歯の一本一本に、改めて目を止めたことが、これまでにあったでしょうか。
はじめまして。三浦陽子と申します。歯科医師として大学病院や歯科クリニックで十二年ほど臨床に立ち、その後ご縁あって、歯のことを書くフリーライターに転じました。診療台の前で、たくさんの患者さんと向き合うなかで、私が一番心に残しているのは技術の話ではありません。それは「もう、戻らないんですね」と、抜歯のあとに静かにつぶやかれた、あの方の声です。
歯は、失うまではただの「当たり前」です。でも一度失われると、人はその一本がどれほどたくさんのものを支えてくれていたかに気づきます。今日はそのお話を、私の臨床現場での記憶と、最新の研究を交えながら、ゆっくりお伝えしたいと思います。
「失ってから気づく」歯のありがたさ
歯を失う瞬間というのは、案外、劇的ではありません。痛みに耐え続けた末の抜歯であっても、抜けた直後はむしろ静かで、口の中にぽっかりと、丸い穴が空いたような感覚だけが残ります。
何気ない朝の、奥歯の喪失
ある六十代の女性のことを、今でもよく思い出します。長年の歯周病で、左下の奥歯がぐらぐらしていたその方は、ある朝、洗面所で歯を磨いていたら、歯ブラシの動きに合わせて、奥歯がぽろりと落ちたそうです。
「先生、痛みもなくて、出血もほとんどなくて。むしろ抜けてホッとしたくらいだったんです」
そう話す彼女の声は、明るかった。でも、診療台に座って、私が次の治療の話を始めようとした瞬間、急に黙り込みました。「もう、生えてこないんですよね、その歯は」と、ぽつりと言ったのです。
そのときに気づきました。歯を失うことの本当の重みは、抜けた瞬間ではなく、戻らないと知った瞬間に、その人の中に降りてくるのだと。
ある患者さんの「もう、戻らないんですね」という言葉
子どもの乳歯は抜けても、その下から永久歯が顔を出します。けれど大人の歯は、一度失えば二度と生えてきません。当たり前のことなのに、いざ自分のこととして向き合うと、その当たり前が、急に重く感じられるのです。
私はそのとき、慰めの言葉ではなく、「そうですね、戻らないですね」と、ただ静かに肯定しました。患者さんの感じている喪失感を、こちらが先回りして打ち消してしまっては、その方の気持ちが行き場を失ってしまうからです。
歯がなくなるのは、機能だけの話ではない
歯を失うと、噛む力が落ちます。発音が変わります。顔の輪郭にも影響が出ます。これらは医学的に説明できる事実です。
けれど、それだけではありません。多くの患者さんが口にされるのは、「人前で口を開けるのが怖くなった」「笑うのを我慢するようになった」という言葉です。歯は、その人の暮らしの自信や、人と関わる気持ちのところにまで、深く根を張っています。
歯は心の鏡。そう私は思うのです。歯の状態を見れば、その方が日々をどう過ごしてこられたか、どこに不安を抱えてこられたかが、静かに浮かび上がってきます。だからこそ、歯を守ることは、その人の暮らし全体を守ることでもあるのです。
私たちはどうして歯を失っていくのか
歯を失う原因と聞いて、多くの方は虫歯を思い浮かべるのではないでしょうか。けれど現代の日本では、最も多くの歯を奪っているのは、別の病気です。
抜歯原因の第一位は、虫歯ではなく歯周病
二〇一八年に行われた全国抜歯原因調査によると、歯を失う原因として最も多かったのは歯周病で、全体の三十七%を占めました。次いで虫歯が二十九%、破折(歯が割れる)が十八%と続きます。
つまり、抜けた歯のうち三本に一本以上は、歯周病が原因だということです。歯周病は、虫歯のように鋭く痛むことが少なく、静かに歯を支える骨を溶かしていきます。気づいたときには、歯がぐらつき、抜くしかない状態になっていることも珍しくありません。
| 抜歯の原因 | 割合 |
|---|---|
| 歯周病 | 37% |
| 虫歯(う蝕) | 29% |
| 破折 | 18% |
| その他 | 8% |
| 埋伏歯 | 5% |
| 矯正のため | 2% |
この表を見るたびに、私は患者さんへの説明の難しさを思い出します。痛みが出る前に動くことの大切さを、どう伝えればいいのか。臨床にいた頃の私の宿題でした。
三十代の三人に二人が歯周病の予備軍
日本歯周病学会が示す数字には、毎回、改めて息をのみます。三十代以上の三人に二人が、すでに歯周病、もしくはその予備軍だというのです。
これは決して特別な人の話ではありません。日々忙しく働き、子育てをし、親の介護を抱える、ごく普通の中高年の方々の中で、歯ぐきは少しずつ、声を上げない警告を出し続けています。歯周病については、日本歯周病学会の歯周病Q&Aに、わかりやすい予防の指針が示されていますので、不安を感じている方は一度目を通してみてください。
大人になってからの虫歯は、静かに進む
意外に思われるかもしれませんが、大人の虫歯は子どもの虫歯とは少し違います。子どもの場合は、エナメル質の表面から、歯の真ん中の象牙質、そして神経へと進んでいきます。痛みも比較的わかりやすく出ます。
ところが大人の場合、特に過去に治療を受けた歯では、詰め物の下や歯と歯の間で、こっそりと虫歯が広がっていることがあります。神経をすでに抜いてある歯では、痛みも出ません。気づいたときには、歯の中身がほとんどなくなっていた、という方もいらっしゃいました。
「先生、痛くなかったから大丈夫だと思っていたんです」
そうおっしゃる方の声を、何度聞いたかわかりません。でも、痛くないからこそ、見えないところで進む。それが大人の虫歯の怖いところなのです。
喫煙・糖尿病・食いしばり、生活が歯を削る
歯を失う背景には、口の中だけの話では片づけられない、暮らしぶりが関わっています。
喫煙者は、たばこを吸わない方に比べて、歯周病になるリスクが約三倍と言われます。糖尿病をお持ちの方も、歯周病が進みやすいことが知られています。さらに、知らず知らずのうちにしている食いしばりや歯ぎしりは、健康に見える歯にひびを入れ、ある日突然の破折を招くこともあります。
歯のことは、口の中だけの話ではありません。生活全体の習慣が、ゆっくりと、けれど確実に、歯の運命に影響していきます。
一本の歯が、こんなにも支えていた
歯を失うまで、私たちは一本の歯にどれほど頼って生きていたかを意識しません。けれど失ってみて、初めてわかるのです。あの一本が、毎日のたくさんの場面を、当たり前のように支えていてくれたことに。
噛むことは、脳を起こすこと
噛むという行為は、単に食べ物を細かくするための動作ではありません。あごを動かすたびに、脳の血流が増えることがMRIを使った研究で確かめられています。
朝、しっかり噛んで食べると頭がはっきりする。あの感覚は、気のせいではないのです。口の中の運動が、脳を目覚めさせています。逆に言えば、噛む力が落ちれば、脳への刺激も減ります。これは、年齢を重ねていくうえで、見過ごせない事実です。
唾液は、口の中の小さな川
噛むことで分泌される唾液には、いくつもの大切な働きがあります。
- 食べかすや細菌を洗い流す自浄作用
- 歯の表面を再石灰化し、初期の虫歯を修復する作用
- ペルオキシダーゼという酵素による、有害物質の中和作用
- 食べ物を消化しやすくする酵素アミラーゼの働き
唾液は、口の中をゆっくりと流れる小さな川のようなものです。よく噛むことで、その流れが豊かになり、口の中は自然と清潔に保たれます。逆に、噛む歯が減って唾液が少なくなると、川は涸れて、虫歯や歯周病が起きやすい環境ができてしまいます。
「二十本」が分ける、食事の景色
歯の本数と食事の楽しみの関係について、興味深い研究があります。歯が二十本以上残っている方の九割以上が「何でも噛んで食べられる」と答えているのに対し、歯が一本から十九本の方では、その割合が約半分にまで落ちます。
「食事がとてもおいしい」と感じている方は平均二十本の歯を持ち、「食事がおいしくない」と答えた方は平均十一本だったという報告もあります。
二十本という数字は、ただの目安ではありません。食卓の景色を、人生の景色を、まるごと変えてしまう境目なのです。だからこそ、八十歳で二十本以上の歯を残そうという「8020(ハチマルニイマル)運動」が、長く続けられています。詳しい意義や歴史については、日本歯科医師会の8020運動のページをご覧ください。
歯と認知症の、見えないつながり
近年の研究で、歯の本数と認知症のリスクとの関連が、繰り返し指摘されています。六十五歳以上の方を対象とした追跡調査では、現在残っている歯が十九本以下の方は、二十本以上の方に比べて、認知症のリスクが約一・九倍にのぼったと報告されています。
噛むことが脳を活性化することを考えれば、これは自然な結果なのかもしれません。歯を守ることは、脳を守ることでもある。臨床にいた頃には、ここまでクリアには見えていなかった事実が、研究の積み重ねによって、少しずつ姿を現してきています。
最新の状況については、厚生労働省 令和4年歯科疾患実態調査が公表されており、8020達成率が五十一・六%まで来ていることなど、心強い数字も並んでいます。
失った後に選ぶ「次の一手」
それでも、歯を失ってしまったあとは、その先をどう歩いていくかを考えなくてはなりません。後悔の気持ちはそのまま大切にしつつ、今ある条件の中で、最もよい選択をする。それが、歯科医療の現場が患者さんと一緒に取り組むことです。
インプラント・ブリッジ・入れ歯の違い
抜けた歯を補う方法は、大きく分けて三つあります。それぞれに長所と短所があり、「これが一番」という答えは、人によって違います。
| 治療法 | 仕組み | 期間の目安 | 費用感 | 主な特徴 |
|---|---|---|---|---|
| インプラント | あごの骨に人工の歯根を埋め込み、その上に人工歯を装着 | 数か月から半年 | 自費(高額) | 噛む力が天然歯に近い、隣の歯を削らない |
| ブリッジ | 両隣の歯を削って土台にし、橋のように人工歯をつなぐ | 一〜二か月程度 | 保険適用可 | 短期間で終わる、健康な歯を削る |
| 入れ歯 | 取り外し式の人工歯。部分入れ歯と総入れ歯がある | 比較的短期 | 保険適用可 | 適応範囲が広い、噛む力は落ちる |
それぞれの長所と、向き合う覚悟
インプラントは、噛む感覚が天然の歯に最も近く、見た目もきれいに仕上がります。ただし手術が必要で、費用も自費診療となるため負担が大きく、治療期間も長くなります。あごの骨の状態や全身の健康状態によっては、選べないこともあります。
ブリッジは保険が使える場合があり、比較的早く治療が終わります。けれど、両隣の健康な歯を削らなくてはならないという、見過ごせない代償があります。「一本失ったために、健康な二本を削ることになりました」という患者さんの言葉は、私の中に今も残っています。
入れ歯は、調整しながら長く付き合っていく選択肢です。費用や体への負担は比較的軽いものの、噛む力は天然の歯の三分の一程度に下がるとも言われます。見た目や違和感の問題と、付き合い方を学んでいく覚悟が要ります。
「どの選択肢でもいい」と、私が思う理由
患者さんからよく、「先生はどれが一番だと思いますか」と聞かれました。けれど私は、「それは、あなたの暮らしと、これからの時間の使い方によって変わるのですよ」と答えるようにしていました。
大切なのは、選んだ方法を最後まで丁寧に手入れすることです。インプラントだから安心、ということはありません。むしろインプラントの周囲は、天然の歯よりも炎症を起こしやすい部分でもあります。入れ歯だから手抜きでいい、ということもありません。毎日の洗浄と、定期的な調整があってこそ、長く使えます。
どの治療法を選ぶにしても、「自分の口の中を、自分でいたわる」という姿勢こそが、何よりの土台になります。
当たり前を守るために、今日からできる五つのこと
ここまでお読みくださったあなたに、もし今、すべての歯が残っているなら。あるいは数本失っているけれど、これ以上は失いたくないと思っているなら。今日からできる、確かなことをお伝えします。
歯ブラシだけでは、六割しか落とせない
意外と知られていない事実があります。どんなに丁寧に歯ブラシを使っても、落とせる歯垢(プラーク)は約六割にとどまるのです。残りの四割は、主に歯と歯の間に潜んでいます。
ここを放置すると、その四割の中で、歯周病菌や虫歯菌がじわじわと活動を続けます。歯ブラシは大切。でも、歯ブラシだけでは足りない。これが、現代の口腔ケアの出発点です。
フロスと歯間ブラシは、役割が違う
歯と歯の間を掃除する道具には、デンタルフロスと歯間ブラシがあります。同じものだと思われがちですが、役割は別物です。
- デンタルフロス:糸状の道具で、歯と歯の接触面(コンタクトポイント)の歯垢を取る
- 歯間ブラシ:小さなブラシで、歯と歯ぐきの境目や、すき間が広くなった部分の歯垢を取る
歯と歯の間の隙間が狭い若い方や、すき間がほとんどない方には、フロスが向いています。歯ぐきが下がってすき間が広がってきた方や、ブリッジを入れている方には、歯間ブラシが効果的です。両方を併用することで、歯垢の除去率は約八割まで上がります。
毎晩、寝る前に一回でかまいません。歯ブラシ、フロス、歯間ブラシ、この三点を、自分の口に合った組み合わせで習慣にしてみてください。
半年に一度の歯科検診が、未来を変える
ある研究によれば、五年間にわたり定期的に歯石除去などのケアを受けた方々の歯の喪失本数は、平均〇・三七本でした。受けなかった方々は、一・三九本。およそ三・七倍の差です。
数字だけ見るとわずかに思えるかもしれませんが、これが二十年、三十年と積み重なれば、十本以上の差になります。しかも、定期検診では、自分では気づかない初期のトラブルを見つけてもらえる利点もあります。
「歯医者さんは、痛くなったら行くところ」という時代は、もう終わっているのです。痛くないうちに、半年に一度ご自身の歯と向き合う時間を、暮らしの中に組み込んでみてください。
噛む力を、意識して使う
毎日の食事で、自分が何回噛んでいるかを数えてみたことはありますか。ひとくちに対して、せめて二十回から三十回。そんな目安を頭に置いておくだけで、噛むという行為への意識は変わります。
やわらかいものばかりを選ばず、噛みごたえのあるものを少しずつ取り入れる。よく噛むことで脳の血流が増え、唾液も豊かに出ます。これは、何歳から始めても遅くありません。
自分の口の中を、自分の言葉で語れること
最後に、もうひとつだけ。ご自分の口の中の状態を、自分の言葉で語れるようになることをおすすめします。
「右下の奥から二番目が、最近少し沁みる気がします」「左の上の歯ぐきが、夜になるとむずむずするんです」
そういう小さな違和感を、言葉にしておくと、歯科医院での会話が変わります。会話が変われば、見つけてもらえるものも変わります。歯と向き合う時間は、自分の体と向き合う時間でもあります。
まとめ
歯は、毎日の生活の中で、ほとんど存在を意識されない器官かもしれません。手や足のように、握ったり走ったりするわけではないからです。けれど、私たちが食べる、話す、笑う、その営みのほとんどは、歯がなければ成り立ちません。
歯を失うことは、機能の一部を失うだけでなく、自分という存在の輪郭が、少しだけ揺らぐ経験です。診療台の前で、その揺らぎに何度も立ち会わせてもらった私だからこそ、お伝えしたい。失う前に、気づいてください。今、口の中にある一本一本の歯は、あなたの暮らしを、こんなにも静かに、こんなにも力強く支えてくれているのだと。
そして、すでに何本か失われた方も、どうかご自分を責めないでください。今、残っている歯にこそ、これからの時間を委ねればいい。一本への感謝が、明日の一本を守ります。歯は心の鏡。今日のあなたの口の中は、今日のあなたの心の景色です。
私の祖母は、八十六歳で旅立つまで、二十四本の自分の歯で食事を楽しんでいました。「歯がそろってると、味も覚えていられるのよ」と笑った祖母の口元を、私は時々、診療室の白い灯りの中で思い出していました。あなたにも、そんな景色が長く続きますように。